窓から差し込む、月と星の光が明る過ぎるくらいだった。雲一つない、きれいな夜空だ。
 ここ数日降り続いていた雨はようやく上がり、窓際に残る水滴だけが、雨の跡をかろ
うじて残している。
 背後で、ベッドが軋み、衣擦れの音がする。

「フォーニ? ……起きてるの?」

 私は、窓の外を見つめたまま答える。

「……ちょっとね」
「そっか」

 クリスが起き上がり、そっと後ろに立ったのが、聞き慣れた息づかいや、気配でわか
る。灯りをつけないで欲しい、というささやかな願いがクリスに届いたのだろうか。彼
は私と同じ先を見つめ、しばらく黙ったままでいてくれた。

「それよりクリス……こんな時間に起きてだいじょうぶ? 風邪はもう治ったの?」

 クリスは肩をすくめた。

「なんだ……そっちも大丈夫みたいだね」
「そっちも?」
「元気、なさそうに見えたから」

 そんなことがわかるくらいには、私たちは通じ合っていた。
 それは、私がアリエッタであった時から変わらない、とても小さくて、でもとても事
な、ひとつの幸せの形だった。

「それならさ、アンサンブルしよっか」
「こんな夜中に? 駄目だよ」

 答えの分かり切ったやりとりが、ほんの少し傷ついた心を、優しく癒してくれる。

「じゃあ、明日ね」
「……しょうがないな。わかった、明日ね」

 呆れながらそう言い、でも、クリスはベッドに戻ろうとはしなかった。

「どうしたの?」
「なんだか、眠れそうになくて」

 クリスの見つめる先は、今も雨が降っている。その雨が止む日が、いつか必ずくるは
ずだった。その時、私はどこにいるんだろう?
 いや……どこにもいない。いるはずがなかった。

「そうだ……昨日の猫の話には、続きがあるんだった」

 不意に、クリスが明るい声を出す。

「どこまで話したっけ」
「えっと、家族がみんな、事故で亡くなったことと、女の子が飼ってた猫がいなくなっ
たこと」
「ああ……それで、猫が好きだった公園に、首輪を埋めた話までだったかな」

 ほんの数時間前の出来事に、泣いてしまいそうになるのを必死にこらえる。

「誰が埋めたか、不思議には思わなかった?」

 言われてみれば、そうだった。
 昨日はそんなことに気づかないほど、必死だった。クリスから公園の場所を聞き出す
ことや、ソラーレのことばかり考えて、他のことは気にならなかった。

「気がついてから、なんだか気になっちゃって、今日、話をしてくれた人……ああ、食
堂のおばさんに聞いてみたんだ」
「……うん」
「実は、その猫を飼ってた女の子のお姉さんが、食堂のおばさん本人だったんだ。三人
が事故で亡くなった後に、なぜか家に残ってた首輪を、公園まで埋めに行ったんだって」
「でも、おばさんはなんでそんなことまで知ってたの?」
「近くに住んでたから、よく遊びに行ってたったらしい。しかも、小さい頃は妹とよく
似てたから、猫もときどき間違えてたってさ」

 クリスは、微笑みを浮かべ、そんな風に話を続けている。

「それでね、その猫は、一度だけ人の言葉を話したって。猫は一生に一度だけ、人の言
葉をしゃべるって、どこかで聞いたことがあったかな」
「何て言ったの?」
「その背中に乗せてほしいって、おばさんが頼んだら……自分がもっと、大きくなった
らなって」

 ソラーレの背中に乗ったときに感じた、風が、その毛の柔らかさが、暖かさが、鮮や
かに思い起こされた。しかしもう、悲しみに彩られてはいなかった。

「その猫がよほど大きくなったとしても、今のおばさんを見たら、持てあますだろうね。
大きくなりすぎてるから」
「そんなに大きいの?」
「うーん……主に、横方向に」

 クリスにつられて、思わず私も笑う。
 一匹の猫と、一つの家族の物語は、悲しい結末を迎えてしまった。でも、悲しみだけ
に囚われて過去を悼むより、残された者たちが、あんな幸せなこともあったと、笑って
話せるほうが良い。クリスはそれをわかっているから、私も、今を笑って過ごせる。

「まあ……あんまり関係ない話だったね」

 それは、三十年以上も前の話だった。クリスは笑い話として私に話してくれたけど、
私にとっては、今日の……いや、ここ一週間の出来事だ。でも、おばさんがクリスに話
してくれたように、悲しいだけの記憶ばかりじゃない。

「ううん、ありがとう」
「どういたしまして。フォーニは眠れそう?」
「もうちょっとだけ……外を見てる」

 クリスはベッドに戻ろうとして、それからなにかを思いついたのか、戻ってきた。

「ねえ、フォーニ。歌を歌ってよ」
「こんな遅くに?」
「誰にも聞こえないから、大丈夫だよ。フォルテールは弾けないけど」
「あ……そういえば、そうだったね」

 でも、私の声を、クリス以外で初めて聞いてくれた、ソラーレには届くかもしれない。
思い直して、私は大きく息を吸い込んだ。


 歌声が、旋律に乗って軽やかに踊り始める。
 歌に乗せ、鈴の音が、チリンと鳴った気がした。

 今日の天気は、雨のち晴れ。
 それは――数日降り続いた雨の、終わりを告げる日だった。

 

メニューへ